どうでもいい話 『終末論』について

 
 ホントどうでもいい話なんだが、『終末論』を話すことはとても不毛なことだと思ってしまう。終末が来たらどうしよう? 来ないで欲しいと願って、それに向けて、努力するためのものならば納得がいく。特に企業の話になると急にリアルな話になるため、信憑性が沸いてネットに拡散し、悪影響を与えるカタチとなってしまう。
 とはいえ、そういう悪影響を与える『終末論』は稀な話であり、ほとんどの場合、マユツバ程度のものだ。ただの冗談で終わる。『終末論』っていうのはそういうもの、ただ信じるか信じないかでなく、その大きなものがどうやって滅んでいくかを見たい願望に過ぎないのだ。
 
 例えば、退廃していく廃墟も当時は美しかった建物のはずだ。もし、仮に何十年も渡って建物だけを映したビデオがあり、それを早送りにしたら、没落していくグラデーションが見えるはずだ。蔦(ツタ)が柱に絡みつき、空堀だった堀が水堀となり、その水堀が藻で覆いつくす映像はまさにため息もだ。そこにいた王族達の生活を妄想すれば、没落していくその姿に、歴史を感じるだろう。
 当時は永遠だった城も、崩落する姿には一種の芸術が見えてくる。それを考えれば、なにげない『終末論』も芸術的、文学的な立ち位置を持つのだ。
 
 ――急激に凋落していく世界、その世界を転がして楽しむ人々。終末は望むというよりも転がしていく方を面白がるが、実際に来てもらうと困りものだ。
 観客者のうちは『終末論』は面白いものだが、実際にその中に入るとなると面白くない。『終末論』というのは噂話も陰口にも似ているのもうなずける。火のない所に煙が建たないというが、ソースがはっきりとしないものにガヤガヤ言った所で、何も進展しない。
 だから何の進展のない『終末論』を話すのは不毛となるわけだ。話しても『終末』が来ないのだから。もし来ると確証されているのならば、もうすべての機関がしている。テーブルの上で騒いでいるうちがまだ平和だ。
 
 ……表で騒いでいるのならば、もう終わりだけどね。