仮にあなたが裁判員として加藤智大をどう裁く? シンボル化する殺人犯

 

秋葉原通り魔事件の雑談から転がり落ちた問題

 今夜、友人と話す機会があり、あるカフェでこの件に関して話しあいました。マスコミはいい加減、余裕がないんだな、とか、自分も今の暮らし苦しいから一歩間違えばああなったかもしれない、とか色々と意見を交わした。

 そんな話をしている中で、友人はとんでもないことを言ってきた。

友人「もし加藤を裁くならどんな刑がふさわしい?」
私「もちろん、死刑じゃない?」
友人「死刑だろうな。そりゃな、でもな、仮に無罪になったらおもしろくないか?」
私「おもしろい? おいおいそれは少し不謹慎だろう」
友人「わかってる。でもな、裁判員制度ってあるだろう。もし、裁判員全員が加藤に同情的だったとして、無罪になったとき、どうなるんだろう?」
私「それはないだろう。裁判員制度って言っても国が管轄するものだし、同情的な人間は参加させないと言ってるし、そうならないようにするって」
友人「だから仮だよ、仮。“もしも”のお話。裁判員全員が加藤に同情して、無罪にしたら、これって、大きなことになるんじゃないのか?」
私「わからん」
友人「自分もわからん、ただ言ってみただけ」
私「頭の中で整理してから話せ」

 と、この話はここで終わり、別の話へと変わりました。
 
 その帰り、私は電車の中でふと、この話について思い出しました。
 いつか彼も裁かれる、そのとき、一般人の数名が彼を裁くのだろうなと他人事のように思いました。

 しかし、そこで私はあることに気づきました。


 ――もしそれが彼を利用する立場の人間ならば、どうなるのか?


 背中がぞっとする気分でした。
 

“現代人の病魔の塊” シンボル化する殺人犯


 この度の事件で裁判をかけたとき、普通に考えれば、死刑です。数でもない、質でもない、自分のわがままで殺したのだから、情状酌量のないものとして極刑に裁くべきです。


 ――しかしながら、もし誰かが彼の境遇に同情した数人が裁判員として参加し、無罪や無期懲役などを可決させたとき、どうなるだろうか?


 現在、彼はあらゆるメディアで取り上げられていますが、それぞれ着眼点が違っています。
 はてな匿名ダイアリー秋葉原通り魔事件の犯人の属性が多すぎる件では、彼のシンボルはこれだけあると書かれています。(一部、編集しました)

 酒鬼薔薇世代(83年前後の世代)
 親はエリート
 厳しすぎる家庭教育
 進学校
 挫折
 
 車ヲタ
 ミリタリーオタ
 ゲームオタ
 その他オタ全般
 
 短大卒(短大は最近不人気)
 就職氷河期世代
 工場派遣
 地方出身(地方は仕事が無い)
 トヨタ関東自動車工業トヨタ系)
 景気後退に伴う安易な首切り
 つなぎを隠された(職場イジメ、「不機嫌な職場」)
 
 非モテ非コミュ
 非社会的・孤独な若者
 携帯サイト
 犯行予告・実況
 
 秋葉原
 
 追記より
 
 ブコメの人は頼むからよく読んでくれ、「話題の固まり」と書いてあるだろ。つまり周囲(=マスコミやネット)によってそれぞれの属性が話題にされるだろうということしか言ってない。こんなもので何かが理解できるだなんて勿論思わんよ。

 今、ネットでは格差社会の被害者、自分もそうなるかもしれないという論調が高まっています。みなさんは前以っていけないことだと言いながらも、彼の気持ちは理解できると言った意見です。現代人の病魔の塊だ、という方もいました。


 一方、彼に対して同情的なヒトは何%いるのかと思い、調べてみようとしたところ、人力検索はてなにありました。感謝です。
 人力検索はてなの、秋葉原の通り魔事件の犯人について、あなたはどれぐらい同情しますか?では、こんな統計がでていました。

 
 同情する人が居ることも信じられないくらい、まったく同情できない。 351
 自分は同情しない。 370
 少しは同情できる。 136
 強く同情する。 127
 共感し、自分も同じことがしたい。 16

 
 
 

 
 同情しないが720票近く、同情するが280票近くありました。この同情票が多いか少ないかはわかりませんが、彼の意見を理解する方が30%弱もいたことには驚きです。
 どんな気持ちで入れたのかはわかりませんが、加藤智代容疑者に同情する、理解する気運があることは、この統計から読み取れるはずです。
 

かといって、殺人犯をシンボル化してはいけない。

 
 仮に、彼が格差社会の代弁者としてのシンボルが確立とし、無罪、または極刑でない刑を勝ち取ったとしましょう。そうなったとき、いわゆる負け組層の意見が届いたとマスコミは報じるはずです。
 そうなれば、裁判は、この社会はおかしいと言える国民の主張の場としての役を持ってしまいます。裁判は社会そのものの是非を争う投票箱となってしまう恐れがあるということです。
 
 これは司法の精神に反するものだと私は思います。司法は罪を問うものであり、社会を問う場所ではありません。ましてや、偶然選ばれた、人間が国民代表というのはおかしな話であります。
 
 とはいえ、国民の声を受け入れない行政にガツンと一発ゲンコツを入れるためには必要なのかもしれません。選挙以外の窓口を作って、背中に冷や水を入れてやることも悪くはありません。


 でも、そうじゃない。それは違う。裁判員として参加するのならば、“罪”を問うべきなのだ。


 そして、この中で一番怖いのはマスコミがこれからの刑事裁判は“国民の意思”によって決断される、という誤解をまねく報道です。――国民の意思の声を問うのはがあくまで選挙であり、裁判へと持ち込ませてはいけないのです。


 ――彼を裁く数名の中に選ばれたとき、あなたはどうしますか? 自分の主張や感情を抑えて、彼を正しく裁けますか? あなたもまた国の意思の一つとなるのです。

※ このブログは少し頭を冷やしてもらうためのブログです。

 
 この記事は、彼が格差社会の代弁者という気運が高まりつつあるネット世論に対して、ストッパーとして書いたものです。なぜ、ストッパーブログを書いたのかというのは、“心の闇”の正体 【秋葉原無差別殺傷事件】を読んでみてください。

※ 追記 きっかけ

 id:t-murachiさんのブコメの意見を汲み、こういうストッパーブログを書いてみることにしました。