ネタバレとは『排斥』である
『傑作』と呼ぶときのたしかな基準が一つありまして、それはズバリ……
『ネタバレしていても感動する物語』であること。
略)
物語(構造)が大事でないとは、まったく思わないです。むしろ大事です。
だけどホンモノは、たとえお話が分かっていても、たとえネタバレしてても、
それでも心が動かされる!と思います。
確かにネタバレをしても面白いものは面白いものです。また、それを読んでみようと思う起爆剤にもなりますし、それを追って読んでみるのも一つのリードスタイルかと考えられます。
しかしながらそのネタバレっていうのは誰が決めるのだろうか? 言うまでもなくそれは読者である自分です。
ネタバレは、誰かと話したい意思の表れ
そもそもネタバレは理解のある読者にとって未読者に教えてはならないという自制(罪悪感)であり、作品を知る者同士と話したいものだと考えています。
また、ネタバレっていうのは未読者に対して排斥するワードでもあります。ネタバレを挙げる読者は、それを知らないで語るな! という排他的仲間意識がそこにはあります。
では、どうして排他的仲間意識があるのでしょうか? それは作品を読んでから作品を通じて話をしたい、つまり共感者を増やす無意識下にある心理が働いているわけです。
――ネタバレという言葉を使うことで未読者を排除し、作品を知るものだけ同士に知ってほしい、濃密なコミュニケーションを取りたいわけなのです。(知らない方には許してほしいという意味も込められています)
逆に、ネタバレという意識を持たず、ペラペラとネタバレ部分を言う者もいます。事実、私もそんなネタバレを言われた被害者の一人です。
是が我の“ネタバレ”の痛み
――ネタバレになりますので、ゲーム名は伏字にさせてもらいました。
私は昔、やりたいRPGがあった。――中古でやってみようか、時間の無駄だからやらなくてもいいかな、と心の中でずっと揺れていた。
そんなある日、高校時代の友人同士でカラオケに行った際、あるアニメの話で盛り上がった。そのあるアニメとはゼーガペインだ。
ゼーガペインの話をしている中、ある友人はこんなことを言い出した。
「そうそれ、ある種、○○○の結末に似ているよな」
それを聞いたとき、私は、はてな? となった。
「なんで、○○○の結末となる?」
他の友人はこう指摘する。
「それって、ネタバレじゃないのか?」
すかさず、ネタバレをした友人はこう返事した。
「ゴメン、てっきり知っているものだと思った!」
友人はそれをネタバレだと認識し、それ以上○○○について話すことをやめた。
きっとこれからも○○○の話をすることはないだろう。もう私は○○○をプレイすることはないのだから。
○○○の結末を教えられた私が、それ以上、○○○にこだわる理由などはない。ネタバレっていう痛みを素肌で知ったのだ。
『消されるな、この想い 忘れるな、我が痛み』、まさに“是我痛”だった。
排斥のネタバレ
ネタバレは読者が取り上げる、未読者に教えてはいけない肝とも言える部分であり、読んだ者同士で共感したい意味と思っています。
また、未読者に対して、いつかそれで話をしたい、だからそれを読んでくれという希望も込められています。……誰かにアクセスされたがっています。
しかしながら、読者が未読者に対してネタバレを教えてしまったとき、それ以上知らなくてもいいと、作品を読まなくなる危険性があります。だからこそ、理解のある読者はネタバレという一線を引くことで、その話題に対して自由に話しあいたいというメッセージがあるわけです。
――ネタバレしてても感動できる。その言葉の裏側にあるのは、その話に関して強く話したい相手を持ちたい、いわゆるふるいをかけるように選別したい言葉の表れです。
つまり、ネタバレとは、傑作だと勧める読み手の心の裏側、と、考察します。
蛇足・犯人はヤス、の、ホントのネタバレ
有名なネタバレとして、ポートピア連続殺人事件の犯人のヤス、いわゆる、犯人はヤス、という、とりあえず、こいつが犯人だというギャグがあります。
――ホントはコマンドに隠されたトリックに気づくかどうかなんですけどね。(←これがホントのネタバレです、すいません)